新選組 史実

2005年09月21日

島田魁さんの鉄瓶が見つかった!

 史実の新選組ファンにとっては重要度の高いニュースなので速報で出します。

新選組隊士・島田魁の遺品 鹿野の井上さんが保存
 「新選組の隊士、島田魁(一八二八-一九〇〇年)が、新選組の同志や自分の殺した人たちを供養したと伝えられる釣り鐘形の鉄瓶が、鳥取市鹿野町に保存されていることが二十日までに分かった。島田の四男が戦時中に同町に疎開した際に持ってきたもので、池田屋事件や鳥羽・伏見の戦いなど数々の修羅場をくぐり抜けて生き残ったが、多数の人々を殺したことを悔やんだ島田の痛恨の心情がしのばれる」。

 うわ~っ、島田さんが毎日撫でて供養したと伝わっている鉄瓶が、このタイミングで世に出てくるとは。まるで続編『新選組!!』の制作を待っていたようなタイミングだと感じてしまうのは、恥ずかしながら『新選組!』ファンの性《さが》でございます(汗)。

 しかも「『国家安康』の文字が鋳込んであり、京都の釜師・浄味の銘がある。京都の方広寺の釣り鐘を写したもので、島田が明治時代に京都で入手したとみられる」……この釣鐘って、徳川家康が豊臣家に言いがかりをつけた因縁の釣鐘ではなかったでしたっけ(汗)。島田さんがなぜ方広寺の釣鐘を模したものを選んだのか、不思議に思ったりして。

 作家の中村彰彦さんが語っている「絞殺した」人というのは、新選組隊士の小林啓之助のことですね。新選組が伏見奉行所に移って間もなく、薩摩の間者だという疑いで、島田さんが絞め殺したことになっています。中村さんの著書『いつの日か還る』で主人公として描かれる島田魁さんは、この事件をトラウマとして終生抱え込んでましたね……。

 鉄瓶は自分が手にかけた人々の供養に使われたと記事では書かれていますが、新選組関係の聞き書き本では、土方さんの供養のために念仏を唱えて撫でたという話もあったと思いますが……うろ覚えです(汗)。

 この鉄瓶は個人蔵ということになりますが、今後公開の予定はあるのかどうか等の情報は記事にありません。でも、見つかったというだけでも嬉しいではないですか。

at 17:00|Permalink

2005年07月27日

芹沢鴨の名前の由来に肉薄するブログ記事

 偶然見つけたブログの記事だけど、興味深いのでご紹介。

司馬遼太郎も知らなかった芹沢「鴨」の由来 茨城のむかしむかし大昔14
司馬遼太郎も知らなかった芹沢「鴨」の由来 茨城のむかしむかし大昔15

 記事の前半は司馬遼太郎さんの小説『新選組血風録』における芹沢鴨の紹介。これだけだったら拙ブログで取り上げる予定はなかったのだけど、後半は『常陸風土記』に始まる、当地の「鴨」にまつわる地名と伝承の紹介……これが、とても印象に残った。

 「天皇の威光にひれ伏すこの鴨にこそ、自分の身を犠牲にしても帝のために尽くそうとする高い志を見たに違いない。そしてこの鴨になぞらえ、名乗りを『鴨』としたものとわたしは推定するのである」

 去年、玉造に行った時、たまたま玉造観光協会の方に案内してもらったので、鴨宮という地名があることを教えていただき、「鴨」の名前は鴨宮に由来しているのではと教えていただいた。

 今回、この記事を読んで、尊皇攘夷というか勤皇思想の強い水戸で教育を受けた芹沢鴨が「鴨」の名に込めた思いの深さを感じた次第。なるほど、目からウロコでした。

at 20:39|Permalink

2005年04月18日

加藤高明首相の伯父、佐野七五三之助だった

 先週、本宅の第一掲示板にマリコさんからお知らせいただいたニュースがネットに掲載されたので、早速ご紹介。

加藤高明のおじ 新選組だった

 「旧佐屋町『現・愛西(あいさい)市』出身の元首相、加藤高明(1860~1925)のおじに、新選組隊士がいたことが、蟹江町のガイドボランティア組織の調査などで分かった。」

 「この隊士は蟹江町出身の佐野七五三之助(しめのすけ)。1867(慶応3)年、新選組の全隊士が幕臣に取り立てられたことに尊皇派として反発。隊を離脱し、先に分裂した伊東甲子太郎の御陵衛士に合流しようとしたが断られ、進退窮まって京都守護職邸で同志3人とともに切腹した。」
 切腹説以外に新選組による暗殺説もありますが……。

 「『新選組は明治政府の敵役。好意的に評価される現在とは全く違う。まして、三菱・岩崎家の婿になった加藤高明は、おじが隊士だったことを隠したかったのでしょう』と伊藤さんは推測する。」
 明治政府の顕官に新選組隊士の血縁がいたというのは驚きであると同時に、それをひた隠しにしなければならなかった一族の方々のご苦労も偲ばれる記事でした。

at 14:35|Permalink

2005年03月17日

『新選組。永倉新八からの伝言』を見た

 昨年11/18記事「新選組関係の地域ニュース、まとめて」と2/25付記事「『新選組。永倉新八からの伝言』、放送予定」で紹介したテレビドキュメンタリー『新選組。永倉新八からの伝言』をやっと見ることができた。

 永倉新八のひ孫であるテレビディレクターの方が制作した番組だけに、真面目で、内容が濃かった。

 ドキュメンタリーは、37歳になったディレクターが、同年で新選組の顕彰碑を建てるために飛び回った永倉新八の人生や思いを理解しようとするプロセス……30代後半のその気持ち、わかるよなぁ。一通り仕事をしてみて改めて自分とは何者なのかを振り返りたくなる時期で、ディレクターの杉村さんはひいお爺さんの杉村義衛を通じて自分の立ち位置を確認しようとする。

 そして、浅田次郎、黒鉄ヒロシ、立川談志の各氏からの永倉新八評を聞きながら、後年には杉村義衛と名乗った永倉新八の軌跡を追っていく。京都の歴史家は、『浪士文久報国記事』のオリジナルを見せてくれる(散逸したと聞いているのですが、一巻目は歴史家の方が保存しているのだと知って、ちょっと嬉しかった)。

 「義衛」が「義を衛る《まもる》」という意味で、「衛」は「試衛館」から取ったのではないかという説、何だかすとんと胸に落ちた。「義を衛る」という名前は、いかにも曲がったことが嫌いそうな史実の永倉新八らしいと思う。それに、もし「衛」が「試衛館」から取った字ならば永倉新八っつぁんは青春時代のルーツを忘れずに後半生を生きたのだと思えるし。

 二度ほど繰り返し見て、暖かい気持ちになった。

at 20:14|Permalink

2005年02月13日

『新選組 『最後の武士』の実像』大石学さんインタビュー

 たまにしか記事検索していない北海道新聞(汗)にて、大河ドラマ『新選組!』の時代考証にも参加された大石学さんのインタビュー記事を発見。

「新選組」を書いた 大石学(おおいし・まなぶ)さん

 本については「史料検証のポイントは、近藤勇ら新選組草創期の中心メンバーが多摩と江戸の関係者であったのはなぜかという歴史的前提、政治的基盤、組織の近代性の三点」と紹介されている。発売されたのは去年だが、すでに、白牡丹が史実の新選組について調べる時の本のうちの一冊になっている。

 「新選組に、オタク的な関心はない。『むしろあまりのめりこまないようにしようと思ってきた。史料から何が言えるかが基本』と冷静な研究対象としての分析に徹する」と、学者さんらしいスタンス。「ブームをブームとして終わらせてはだめ」とのご発言に、大河ドラマを契機に歴史学的な新選組の評価検証がさらに進むことを期待する。

at 15:06|Permalink