土方歳三 史実

2005年11月15日

12月21日「それからの新選組」再放送

 12月21日(水)『その時歴史が動いた』はアンコール放送で「それからの新選組~土方歳三、北の大地に死す」が再放送されます。

NHK『その時歴史が動いた』これからのラインナップ
それからの新選組
~土方歳三、箱館に死す~
平成17年12月21日(水)21:15~21:58 総合

 去年の放送時の情報はこちらです。
■今回の番組は、以前放送したものの再放送か?
平成13年6月6日に放送されました「土方歳三 北の大地に散る~戊辰戦争、最後の激戦~」のVTR部分をほぼそのままに、スタジオトーク部分を函館リポートに作り替えて、制作いたしました。今年、大河ドラマで新選組が取り上げられたこともあって、視聴者の皆様から再放送希望が多数寄せられており、これにお応えするものです。ただし3年半前の番組のため、当時のままの再放送ではスタジオセットやテーマ音楽等が現在のものと異なり、視聴者の方々が違和感を感じられる可能性もあるため、新たに手を加えさせていただきました。
 去年の放送直後に函館に旅行して、番組で松平キャスターが立っていた弁天台場の石が残った漁港の岸壁までキトラさんに案内していただいたのでした……あれから1年、『新選組!!~土方歳三最期の一日~』放送直前のアンコール放送に感慨ひとしおです。

at 22:11|Permalink

2005年07月29日

土方さん東山温泉滞在地は確定?

 時々覗いているサイト会津東山温泉 -不動滝/濫觴-「猿の湯宿ブログ」で、驚きの記事を発見。

土方歳三戦傷湯治の猿湯
 「東山温泉の発祥となった猿湯は平成四年に発見された古文書や慶応四年当時の羽黒山東光寺の住職の日記などから土方歳三が戦傷湯治をしたとのお墨付きをいただくに至りました」……ほぉほぉ、土方さんが東山温泉の猿湯に滞在していたという推定がかなり確実になったとな。これは、史実の土方さんファンには非常に興味深い情報です。

 もっとも、白牡丹の関心は、慶応四年四月後半に宇都宮で負傷してから慶応四年七月初旬に戦線復帰するまでの土方さんが本当に引きこもって療養だけに専念していたのか、という観点でして(^^ゞ。これは、猿湯に滞在していたことが裏付けられたとしても、それだけでは結論できない疑問です。

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 追記。史実とは関係ないですが、自動車に「会津」ナンバーができたようで。
18のご当地ナンバー発表・奄美と富士山が落選
仙台ナンバー実現 会津など17地域も 来年度から
 蛇足な感想としては「仙台」ナンバーも今までなかったのかという驚き……戊辰戦争で敗れた藩には、自動車ナンバーが与えられなかったのか(違うと思うけど^_^;)。



at 20:27|Permalink

2004年12月16日

『その時歴史が動いた』それからの新選組~土方歳三、箱館に死す

 昨日の本放送の直後に感想を書く時間が取れなかった(朝日新聞への投稿に忙しかったとも言う^_^;)ので、改めて録画を見て、感想。

 記事「『その歴』に土方さん再登場」にご投稿いただいた某ディレクターさんのお書き込み通り、再現VTRは2001年6月6日放送の「土方歳三、北の大地に散る」を使い、松平キャスターの函館レポートを新たに撮影して再構成し直したもの。蛇足ながら、2001年の放送時にはゲストに黒鉄ヒロシさんを招いた放送で、黒鉄さんが戦い続けた土方さんのことを「性分なんでしょうねぇ」とコメントしたことが印象的だった。

 今回の放映分でいえば、松平さんが二股口の戦場跡に分け入って塹壕跡を紹介したことが印象的。白牡丹、二度ほど二股口の入り口を訪問したが、積雪が深かったり、夏場は熊が出るということもあったり、塹壕跡まで登ったことがないのだ……18日間にわたって新政府軍(番組では「官軍」という呼称を使っていたが、白牡丹の主義で「新政府軍」と呼ぶ)を迎え撃った地は、本当に急斜面なんだなと思った。

 この番組の感想を書いたブログを積極的に徘徊してはいないけど、リンクしているブログの記事などを見て、『新選組!』でハマった視聴者と、それ以前に史実の土方さんファンで、2001年にこの番組が放映された時に感動した自分とは温度差があるんだなと何となく感じた。
 白牡丹個人についていえば、史実の土方さんにハマって(というか、惚れ込んで^_^;)一年ちょっとという時期だったから、NHKが史実の土方さんの軌跡をかなり忠実に再現した(土方さんの語録がどの時点のものであるかという点では、記録に残っているのとは若干前後しているのだけど、歴史ドキュメンタリーとしては許容範囲だと思った)番組のつくりに、制作陣には史実の土方歳三に惚れ込んだ方がいるに違いないと思ったくらい、よくできていた。
 そして、沖田さとしさん演じる洋装土方さんに、「写真のイメージにそっくり」と、沖田さんを起用した制作陣に、感謝したものだ。

 ……まぁ、ことほどさように、『新選組!』が新選組のファーストコンタクトだった視聴者と、それ以前の史実の土方歳三ファンだった私とのギャップは大きいわけで(^^ゞ。
 三谷脚本の『新選組!』の山本土方さんに魅了されている白牡丹なのだけど、史実の土方ファンの自分史において、史実をかなり忠実に再現してくれた『その歴』と、史実の土方さんのイメージを当時として最大限忠実に再現してくれた、沖田さとしさん演じる洋装土方さんについて、誰よあのおっさん、みたいな感想を眼にしたりすると、悲しくなってしまう。
 『新選組!』を見る前からの古参ファンであることを自慢するつもりはないし、白牡丹のサイトやブログには白牡丹よりもずっとずっと前から史実の土方さんのファンであった方々もいらっしゃるので、ほんの何年かの土方さん贔屓である自分などはまだまだ歴史の浅い土方ファンだとも自覚してるし。
 でも、心から思うことは、この番組を通じて、『新選組!』から入った方でも、史実の土方さんが箱館で戦死するまでの心の軌跡に触れられるこの番組を、稀少なものであることを知って欲しいこと。

 ……だってねぇ、最近だって『所さんとおすぎの偉大なるトホホ人物伝』みたいな番組で、史実を歪曲する描き方をした歴史バラエティ番組が放送されたばかりなんですよ。『トホホ人物伝』を見て凹んだ視聴者のひとりでも、この番組を見て、流山以降の史実の土方さんはトホホな人物ではなかったと心強く思う人がいるだけでも、意味があるわけで。
 『新選組!』山本土方さんのファンではあるのだけど、史実の土方さんにもっとも強い思い入れのある白牡丹としては、三谷脚本で山本耕史さん主演で続編が描かれることをすごく望んではいるのだけれど、一方で『新選組!』ファンにこの番組の価値をわかっていただきたいとも思うのです。


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2004年11月21日

会津における土方さん(史実)の動向 後編

 土方さん(史実)in会津の後編。

4. その前日

 八月二十二日、土方さんは山口次郎(斎藤一)さんと共に会津若松にたどり着き、前藩主松平容保(引退して家督を譲っていた)と前桑名藩主松平定敬(領地を離れている間に桑名藩が西軍に帰順したために兄を頼って会津入りしていた)の兄弟に拝謁、滝沢本陣に出陣。新選組は天寧寺に泊まった。

 この日の昼過ぎ、戸の口に向かった先発隊から援軍要請が入り、守備兵力をほとんど持たない容保公は白虎隊に援軍を命じる。
 会津は四方を山に囲まれ、国境守備のために兵力を分散せざるを得なかった。石筵口を突破して怒濤のように攻め込んでくる西軍を止める兵力は会津若松に残されておらず、石筵口以外の地を守備していた主力を呼び戻すこともできなかった。

 情勢を見た容保公は弟の定敬公を米沢藩に向かわせる。奥羽越列藩同盟の中でも仙台と並ぶ雄藩である米沢に援軍を要請するためであったろう(あるいは、弟らの保護を託したのかも知れない)。その一行の中に土方さんの姿もあった。翌日に塩川村で会った大鳥さんの記録によれば、土方さんは同じく友藩である庄内藩に援軍を要請しに行くつもりだった。

5. 慶応四年八月二十三日、会津若松

 早暁から西軍が会津若松城下に怒濤のように殺到した。滝沢本陣を出て会津若松城に入った容保公も銃弾が飛び交う中の撤退で、危ういところだったらしい。ただちに城門が閉ざされ、城内に入れなかった藩士や旧幕軍兵士たちは城外で戦うしかなかった。

 非戦闘員であった藩士家族たちや町民たちにも悲惨な一日だった。国家老西郷頼母《たのも》の屋敷では、頼母が登城した後、屋敷に残った婦人や子供たち21名は、戦闘で足手まといになることを恐れて全員が自刃した。前日の夜に山中で迷い、ようやく飯盛山まで辿り着いた白虎隊士中二番隊の少年たちは市内が燃えているのを見て会津落城と見誤り、20名が自決した(うち、飯沼貞吉が蘇生して助け出される)。市街戦における戦死者が約460名、家屋千戸が焼失、藩士家族で殉難した者が230名余りとされる。

 入城できなかった新選組は、郊外の米沢口塩川村に転陣した。この日、同じく塩川にあった大鳥さんは米沢方面に向かう土方さんと顔を合わせた。大鳥さんによれば、土方さんは、これから庄内に行き援軍を頼んで来るので率いていた新選組・伝習隊を頼むと兵を託したという(文章の主語がわかりにくいので違う読み方もできるのだが、白牡丹はそのように解釈した)。

 松本良順先生たち医師団も、この時に土方さんに同行したと思われる……松本良順先生とその弟子たちは会津藩校日新館の建物を借りてボランティアで負傷者の治療に当たっていたのだが、西軍侵入時に城内に入れず、塩川村の旧幕軍に合流していたようだ。

6. 土方さん仙台へ、山口次郎らは会津に残留

 この後の土方さんの消息は九月初めに仙台に現れるまではっきりしていないが、八月二十五日に米沢城下に達していたようだ。時すでに遅く、米沢藩は西軍への恭順を決めていた。土方さんも米沢領内を通過して庄内藩に行くのは無理とあきらめ、白石を経由して仙台に向かう(おそらく良順先生たちご一行も一緒。定敬公らは白牡丹の調査不足ではっきりしないが、結局、仙台に来ている)。

 大鳥さんたち旧幕軍も仙台藩を頼って会津を離れることを決めたが、山口次郎はじめ十数名の新選組隊士たちは、「一たび会津へ来りたれば今落城せんとするを見て、志を捨て去るは誠の義にあらずと知る」と残留して会津支援を続ける(九月四日、高久村の戦闘で散り散りになるが、山口次郎ら少なくとも七名は生存。山口次郎は会津戦争を生き延び、会津藩士らと共に斗南に流され、会津藩士の娘高木時尾と結婚、容保公より「藤田五郎」の名を賜り、大正四年に七十一歳で没する)。

 仙台で旧幕府の海軍奉行だった榎本武揚と合流した土方さんは、仙台藩の恭順を知り、また会津落城も間近であることを見て、徹底抗戦を貫くために仙台に集結した新選組ほか旧幕軍の兵士たちと共に蝦夷地の箱館を目指す。

7. 終わりに……「トホホ人物伝」、あれはひどい(怒)

 ある方のリクエストに応えて、急遽、手元資料をかき集めて整理した一文。正確さに務めたつもりだが、もし事実関係の誤りがあるようであったら、指摘していただきたい。

 史実の土方さんは、「トホホ人物伝」が描いたような、西軍の攻撃を前に援軍要請と称して少人数で逃げるような卑怯ものではない。ましてや、土方さんが会津を離れたために会津が陥落した訳でもない。当時の土方さんは旧幕軍の幹部であり、会津藩から見れば客将のひとりという位置づけで、戦局の中心にいられなかっただけである。

【出典】
『新選組日誌 コンパクト版』菊地明・伊東成郎・山村竜也編(新人物往来社)
『新選組実録』相川司・菊地明(ちくま新書)
『新選組』松浦玲(岩波新書)
『新選組』黒鉄ヒロシ(PHP文庫)
『戊辰戦争』佐々木克(中公新書)

at 15:35|Permalink

会津における土方さん(史実)の動向 前編

 拙ブログと交換日記を愛読している方から、直メールをいただいた。金曜日に放送された「所さんとおすぎのトホホ人物伝」における会津の土方さんの動向を白牡丹が「史実を歪曲している」と交換日記に怒りを込めて書いたら、会津における土方さんをよく知らないのでご教示くださいという依頼。リクエストをいただいたからには、それに応えたい。
 ……というわけで、白牡丹が知っている程度の内容だが、会津における土方さん(史実)の動向を、ご紹介したい。前後編になると思う。

1. 土方さん、宇都宮城奪還の戦いで負傷、会津に避難

 もっと遡りたい気持ちは山々だが、会津における土方さんを中心に書くという目的なので、会津入りのきっかけとなった土方さんの負傷から話を始める。

 慶応四年四月二十三日(新暦では5月15日)、西軍(白牡丹は会津降伏以降に「新政府軍」、それまでを「西軍」と書く習わしなのでご寛恕いただきたい)が奪還した宇都宮城を再奪還する戦で被弾、負傷する。負傷箇所は正確には不明で、足指、足の甲、などの説があり、左右どちらかも特定されていない。
 同じく負傷した旧幕軍幹部で会津藩出身の秋月登之助とともに、今市に後送される。その後、旧幕軍は劣勢となり、今市方面に退却。
 翌四月二十四日、土方さんは今市で、八王子千人同心の一員として日光に駐在していた親戚の土方勇太郎を呼び出し、四月十九日の宇都宮城攻撃の時に逃げ出そうとしたために斬った従兵を哀れみ、金子《きんす》を差し出して供養するように頼む。

 四月二十五日、板橋で近藤さんが処刑される。これについて土方さんが知ったのは、おそらく会津入りしてからだろう。

 四月二十六日、土方さん、会津西街道の会津入り口である田島陣屋入り、この地出身の秋月登之助と別れる。隊士である島田魁さんと中島登さんの記録によると、土方さんに付き添っていたのは島田・中島の他に、漢一郎・畠山二郎・沢忠助・松沢乙造と少人数だったようだ(後述する望月光蔵の記録では伝習第一大隊を率いていたかのように書いてある)。
 その日の夕刻、唐津藩主で幕府老中だった小笠原長行の家臣である大野右仲が清水屋に土方さんを訪問し、宇都宮戦争の様子を聞いたという。土方さんは宇都宮攻撃の先鋒軍参謀を務めており、旧幕臣においては重要人物のひとりであったことの証左といえよう。
 四月二十九日、土方さん、会津若松の七日町にある清水屋に投宿。おそらくは当日または数日のうちに、山口次郎こと斎藤一が率いていた新選組の先発隊(流山から会津に入ったらしい)と再会を祝ったことと思う。

2. 土方さんの「枕投げ事件」

 会津入りした直後の土方さんに関する数少ないエピソードとして、旧幕臣の望月光蔵が記録に残した「枕投げ事件」(爆)がある。枕を投げつけられた望月側からの証言なので正確性と客観性には多少の疑問は残るが、簡単にご紹介。

 望月さんが土方さんの部屋を訪ねると、土方さんは布団の中から「汝等吾にくみせよ」と言った。望月さんの記録では「その傲慢、人を易じる(注・「あなどる」の意)をにくむ」という高飛車な態度だったらしい。
 望月さんが、自分は文官なので文で会津に貢献したいと答えると、土方さんはその臆病を嘲笑して、会津まで来て何をためらっているのか、「吾れに従い戦闘を勤め習えよ」と言った。それに腹を立てた望月さん、宇都宮城を再度攻略できなかったのも臆病ではないか、と言い返したらしい。
 望月さんは、それを聞いた土方さんが「多言、我が病褥《びょうじょく》を犯す。聞くを要せず。去れ」と怒鳴ったと書き残しているが、後に家族に口頭で伝え残した話では、その時に枕(当時は箱枕です)を投げつけられたらしい。

 白牡丹は、その前後の状況から、負傷して動けないストレス、はかばかしくない戦況への苛立ちもあったことが加っての言動だと思う。が、武士の生まれではないけど性根は軍人の土方さんは、生まれながらの武士だけど文官という人物に対しては、このエピソードに限らず、言動がキツいのは確かだ。

3. 療養中の土方さん

 土方さんの怪我の具合はかなり重かったようで、直後に会津入りした松本良順先生の治療を受けて、その後は会津若松郊外の東山温泉に滞在していたらしい……本当に動向不明なのである。
 だが、史実の上では、東山温泉に滞在したという伝承だけで、どこの宿に逗留していたかという記録も、ほとんどない……最近、東山温泉の旅館不動滝・旗亭濫觴《らんしょう》が土方歳三が滞在した旅館だと名乗りを挙げているようだ。

 閏四月五日(新暦では5月26日)、山口次郎率いる新選組、白河方面への出陣を命じられる。以後、百人余りの部隊である新選組は会津藩の白河攻撃軍と共に西軍に奪還された白河城の再奪還をめざして何度か出陣している……が、七月まで何度か攻撃を試みたものの、結局、再奪還はできなかった。

 六月十五日(新暦では8月3日)、土方さんがようやく記録に登場する。上野の東照宮から会津に亡命してきた(後に奥州列藩同盟の盟主とされる)輪王寺宮公現親王の執頭、覚王寺義観に面会する。この直後、旧幕臣で奥州列藩同盟の幹部になっている竹中重固とも面会。

 記録にははっきり残っていないが、近藤勇さんの墓が会津若松城を見下ろす天寧寺の一角に建てられたのは、この頃。土方さんは、近藤勇さんの処刑を会津で聞き、容保公の許可を得て天寧寺の一角に墓を建立した(涙)。西軍に墓を荒らされることを恐れて戒名の「貫天院殿純忠誠義大居士」だけ刻み、俗名は刻まれていない。

 また、六月、福良に駐屯していた白虎隊士中二番隊を土方さんが慰問して大いに励ましたという逸話もあるようだが、白牡丹は土方さん本人でなく新選組の誰かが慰問したのが土方さんの話として伝わっているのではないかと考えている。

3. 土方さん、戦線復帰……そして、母成峠の敗戦

 七月初旬、土方さんは負傷が癒えたようで、白河城を囲んでいる新選組に合流したらしい。

 八月半ば、新選組は二本松方面出兵のために猪苗代城下に宿陣。八月十九日、母成峠出陣が決定され、伝習第一大隊・回天隊とともに守備につく。

 すでに二本松を攻め落としていた西軍が会津を攻めるにはいくつかのルートが考えられ、会津藩は勢至道口と中山口を中心に守備した。母成峠を要する石筵口は険路であり、会津藩は余り重視していなかったらしい。石筵口は旧幕軍約八百名が守備についたが、どうにも数が足りない状態だった。

 一方西軍では、他のルートを攻略するよう幹部から進言されていたのを、板垣退助が会津の意表を突く攻撃ルートとして石筵口を選んだようだ。攻撃部隊は二千六百人。

 銃砲の装備の差も含めて圧倒的な兵力差があり、二十一日の半日で母成峠は西軍に制圧された。新選組では大下巌ら六名が戦死、幹部の山口次郎(斎藤一)が本隊とはぐれて「猿でないと登れないような」岩山を葛を縄代わりに頼りに登って逃走したとか、旧幕軍の司令官である大鳥圭介さんも本隊とはぐれて(爆)山中をさ迷ったとか、さんざんな敗戦である。
 撤退しながらその夜、土方さんは会津藩家老宛に、二十二日の朝までに西軍が猪苗代城まで押し寄せてくるので全軍を集めて防御するよう進言する手紙を書いた。が、予想以上に速い西軍の進軍に会津の城内は混乱したようで、援兵が出されぬまま、八月二十三日を迎えることになる。

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 できれば今日中に後編も書いてアップしたい。

【出典】
『新選組日誌 コンパクト版』菊地明・伊東成郎・山村竜也編(新人物往来社)
『新選組実録』相川司・菊地明(ちくま新書)
『新選組』松浦玲(岩波新書)
『新選組』黒鉄ヒロシ(PHP文庫)


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